08/11/16(日) 21:46
『となり町戦争』
『となり町戦争』(三崎亜記・集英社/集英社文庫)読破。
地域振興の公共事業として行われる、戦争。それに部分的に加わった主人公が、リアリティもなく見えもしないそれを描く。
これほど重いのは久しぶりだ。重いのだが、見かけも事実も非常に軽い。この二面性が心に突き刺さる。突き刺さった事実から痛みは分からないが、それが爆発すると衝撃を受ける、魚雷のような作品だ。
事実は多くの場合美名で覆い隠されて、それをずいぶん咀嚼した後に、真実を思い知らされる。逆に言えば、知り合いが人を殺していようが知り合いが戦死していようが、オブラートに包んでしまえば簡単に聞き流せるものだということが明らかになる。
それよりは、プロポーズを断られた方がよっぽどリアリティもあるし、まっすぐに命に突き刺さるというものだ。
誰一人戦争に反対している人間はいないことにも注意しておきたい。私情を捨てて公務員としてそれに加わるか、玉砕すべく本質的な意味を悟ろうとするか、軍事ヲタクとして遊ぼうとするか、ビジネスマンとして儲けようとするか、興味本位で触ってみようとするか、それは全く別問題だが。
別章では、その事実が直接的に突きつけられている。戦争というものがある以上、それに乗るか、乗らずに死ぬか、この二択だ。この状況はすべてに適応できる。資本主義もそう、搾取もそう。そもそもよく考えてみれば、冷戦が終わってまだ二十年ではないか。
人間はつい最近まで、何をしようが両陣営のどちらかに荷担していたのだ。
ストーリーや叙述について。読んでいるうちに展開は読めていた。だから、小説全体として驚きはしなかった。しかし、気がついた瞬間に走った衝撃だけはどうしても忘れられない。
これはたちの悪い読み方かもしれないが、大切なことだ。
それから、事実に関する描写はいつも控えめだし、公務員的字句が全体に現れることも注意すべき。特に文書は、ライトノベルでいう挿絵のように、叙述以上に意味を持ってきている。あそこにある無謬性と冷徹さは、想像力をかき立てている。
これは反戦小説と読めるだろうか?
もしもそう読もうとすれば、反戦のみならず、現代のすべてを否定するアナーキーなものと読まねばならない。戦争だけを限定して取り扱っているわけではないからだ。戦争と限定するから、意味が奪われる。
たとえば戦争を「競争」と読み替えればどうだろう。都市同士が住民を奪い合い、企業を奪い合い、補助金を奪い合い、合併の主導権を、駅の配置を、医者を奪い合っている。教育現場では予算を奪い合い、図書館の予算は消え、私立と公立、公立と公立の間に格差が生じている。人間と人間の間には生活レベルの絶対的な差が存在し、それを否定はできない。
おそらくは、「反戦」ではない。これにイデオロギー性を認めることはできない。別章にもあるように、事実を「自覚」させる物語なのだ。それ以上進めば、どうやっても間違う。そこからは読者の役割だ。
地域振興の公共事業として行われる、戦争。それに部分的に加わった主人公が、リアリティもなく見えもしないそれを描く。
これほど重いのは久しぶりだ。重いのだが、見かけも事実も非常に軽い。この二面性が心に突き刺さる。突き刺さった事実から痛みは分からないが、それが爆発すると衝撃を受ける、魚雷のような作品だ。
事実は多くの場合美名で覆い隠されて、それをずいぶん咀嚼した後に、真実を思い知らされる。逆に言えば、知り合いが人を殺していようが知り合いが戦死していようが、オブラートに包んでしまえば簡単に聞き流せるものだということが明らかになる。
それよりは、プロポーズを断られた方がよっぽどリアリティもあるし、まっすぐに命に突き刺さるというものだ。
誰一人戦争に反対している人間はいないことにも注意しておきたい。私情を捨てて公務員としてそれに加わるか、玉砕すべく本質的な意味を悟ろうとするか、軍事ヲタクとして遊ぼうとするか、ビジネスマンとして儲けようとするか、興味本位で触ってみようとするか、それは全く別問題だが。
別章では、その事実が直接的に突きつけられている。戦争というものがある以上、それに乗るか、乗らずに死ぬか、この二択だ。この状況はすべてに適応できる。資本主義もそう、搾取もそう。そもそもよく考えてみれば、冷戦が終わってまだ二十年ではないか。
人間はつい最近まで、何をしようが両陣営のどちらかに荷担していたのだ。
ストーリーや叙述について。読んでいるうちに展開は読めていた。だから、小説全体として驚きはしなかった。しかし、気がついた瞬間に走った衝撃だけはどうしても忘れられない。
これはたちの悪い読み方かもしれないが、大切なことだ。
それから、事実に関する描写はいつも控えめだし、公務員的字句が全体に現れることも注意すべき。特に文書は、ライトノベルでいう挿絵のように、叙述以上に意味を持ってきている。あそこにある無謬性と冷徹さは、想像力をかき立てている。
これは反戦小説と読めるだろうか?
もしもそう読もうとすれば、反戦のみならず、現代のすべてを否定するアナーキーなものと読まねばならない。戦争だけを限定して取り扱っているわけではないからだ。戦争と限定するから、意味が奪われる。
たとえば戦争を「競争」と読み替えればどうだろう。都市同士が住民を奪い合い、企業を奪い合い、補助金を奪い合い、合併の主導権を、駅の配置を、医者を奪い合っている。教育現場では予算を奪い合い、図書館の予算は消え、私立と公立、公立と公立の間に格差が生じている。人間と人間の間には生活レベルの絶対的な差が存在し、それを否定はできない。
おそらくは、「反戦」ではない。これにイデオロギー性を認めることはできない。別章にもあるように、事実を「自覚」させる物語なのだ。それ以上進めば、どうやっても間違う。そこからは読者の役割だ。
カテゴリ:読書
| メモ ≪ 08/11/15(土) 20:41 | ≫ 忘れてた 08/11/17(月) 0:38 |