「微笑みの帝国」というタイトルで、短編(よりも短いか)小説をちょこっと書いてみた。
mixiに先に上げたけど、こっちにも上げてみよう。気になるところを少し直したが、ベースは一緒。
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歪んだ街を、彼は歩いた。奇妙に無色な行列をくぐり、同胞を横目で見て、ケーブルとICの間を逃げていった。群衆は一方向に、かつ無目的に都市を消費していた。しかしヨサンは、欲望に心動かされることなく、薄汚いアスファルトを踏み越えた。
彼は古くさいビルの向こうに墓銘碑を見ていた。碑文の文字は読めず、上から板張りの「経済大国」という文字があった。
墓の側面を白いペンキが塗りつぶし、さらにその上に、真っ赤な文字で革命と書いてある。足下には「ブッシュの戦争反対」というビラが撒かれていた。裏面には銃弾と焦げた跡があって、本を窓辺で読む女の姿が、戯れに彫られている。ヨサンには、それらがすべて、秋葉原と同じフィギュアと等価であった。精液をかけるもよし、燃やしてもよし、気に入らなければ売ればよい。どこかの馬鹿が、それを買う。何の感情もこもらない。
彼にとって大事なのは、それらの表層ではない。すべては表象にすぎなかった。まるでポルターガイストを探るように、ヨサンはみんな明かすつもりでここに来た。墓銘碑を削り墓石を倒せば、中から菊と竹槍が出てくると信じていたのである。
政治家たちの自己保身は、決して私利私欲のためではない。彼が読んだ歴史書の中には、そのように思わせる部分があった。だからこそ、彼はその真実を探りに来た。
さて、この男が見ていたものを、私は、先に、読者諸君に示すことができる。ただし私には、この形容が正しいという保証はできない。
「微笑みの帝国」である。
この言葉だけが、彼のメモに書いてあった。その意図は想像するしかないが、ともかく彼の言葉を分析すべきである。
「微笑みの帝国」なるものの実はと言えば、なんでもない。岩が何かの姿に見えるように、帝国の掲げる槍や殺戮の血糊が、たまたま栄光と平和に見えてしまうのである。ヨサンにはその幻想が見えなかった。王様は裸であった。誰もが空気を読んでいる。空気が暑苦しくて我慢ならず、彼は服を脱ぎ、裸になろうと試みた。石のように白い乳首、絶望がのぞく腹、ミミズのように屈服した陰茎、さらした姿は何にもならなかった。風呂で脱げば誰もがかくのごとく、日本男児の裸と何ら違うことなく、その心をのぞき込む眼鏡を持つ者は誰もいない。安穏と、アンチ=アキヒトを叫ぶことができた。裸でも、そうなのである。
変人と呼ばれることもなかった。右翼から罵られることさえなかった。仲間と認める者もおらず、敵と見なす狂信者もおらず、日蓮宗は敵を見間違う。平和主義とはその通りであった。
帝国のマスクはあまりにも美しく、それが化粧なのか、それともただの石像なのか、誰一人知らなかった。ヨサンはそれを、民族主義者のポーズと見ていた。隙あらば銃剣を振りかざし、隣人をにらみつける余力が残っていると信じていたのである。それを見ようと彼は、日本を生きることにした。
彼は坂を静かに登った。
斜め下を騒音が通り過ぎる。オレンジの列車が次々と、日本人を吐き出していった。生首を槍に突き刺すように幕府の中枢を突き抜けたひとつの線路は、かつては田舎者を運び、今やサラリーマンを運んでいる。そして、彼らは道を忘れたのであろう。公共交通機関というものを、彼らは上や下に置きたがり、同じ列に眺めようとはしなかった。
小さな店舗が反対車線側に見える。人気はない。麻雀という言葉は、来し方のパチンコに比べれば重く響いた。儒教の教えも、今や紙くずである。誰もが尊ぶ病院も、若者の喧噪にかすんだ。